第10回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト


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最優秀賞受賞作品
「私の壁を超えた記録」
鹿山 聖蘭 


 小学校の頃からいじめられていた。

 話しても無視される、授業で友達と班を作らないといけない時毎回私だけが一人残る、そして先生がくじ引きで決めると同じになった班の人はみな嫌な顔になる。裏では「聖蘭菌」と呼ばれているようだった。殴られるとかはないけど気分が悪かった。でもまだ耐えきれた、休み時間はずっと一人で図書館にこもっていたから…

 そんな時期に明るいバスケ部の中学生と仲良くなった。身長も態度も小さい私にとっては恐怖でしかなかったのだが、そんなおそろしと思った気持ちはいつのまにかなくなっていった。弟のように思ってもらい、いろんな話を聞いてもらった、お互いが絶対にやらない鬼ごっこで盛り上がったりした。

 何よりも良かったのは、しっかり話を聞いてもらえた事だ。好きな物、今行きたい所、ほしいゲームの事など、すべてさえぎる事なく聞いてくれた。いじめられている話は言えなかったけど…
 
  しかしその中学生は都心に引っこしてしまった。そこからだった。

 二〇一五年その人の母親から連絡があった。その中学生は自殺してしまったようだ。まだ一四才だった。それを聞いた時衝撃が強すぎて何も考えられず喪失感しかない。脳に台風がきて何もかもふきとばしてしまったかのようだ、とにかく心と頭で理解できない、連絡が来たのは告別式も終わってしまった後に来た。それからの数日は何も覚えていなかった。

 突然その日から休み時間に一人でいる事が耐えられなくなってしまった。図書館で本を読む事でさえつらい、ずっと一人が平気なんだと思っていたが、中学生が亡くなった事で一人のだれも話を聞いてくれず、笑ってもうなずいても、もらえないその状況が私を苦しませる。ふと夜に思い出して寝れず泣けてくる、その時は何が嫌なのかも考えられない、ただ衝撃とめちゃくちゃな感情が入り混じっていた。

 次の年からクラスがえがあり運悪く暴力的な子と同じクラスになり、ついに不登校になっていた。引きこもっている時は何も出きない、生活リズムがくずれていくだけでしかない、まだ中学生が生きていた頃いじめられている話が出来ればたがいの悩みを共に理解できるようになっていたかもしれない。一人じゃないって思ったかもしれないという悩みと学校の人より遅れてしまう悩みが出来ていた。

 少し調子の良い時にふと両親の仕事場に行った。ハンセン病と言う栄養失調の悪い時に感染すると、顔が溶けたようになり手の先が曲がってしまう病気の元患者さんのおせわをする仕事をしている。昔はひどく差別を受けていた病気で、かかるともうそれはかなり嫌われたようだ。そこで元患者のAさんに会いに行った。そこには写真をとるのが好きな人もわざわざ来てくれた。あいさつをするとみんなと握手した。2人とも、もう九十才近いのにとても力が強かった。二人とも昔の暗い影もないほど明るく写真を見せてくれたりおかしもくれた。

「あれ今日平日だよね学校は?」Aさんが言った。心臓に冷たい針が刺さったみたいだった口から何も出てこない

「学校行けてないんです。」

両親が言ってしまった。

「そうか…」

私はまだ何も言えてない

「本来いる場所に心休まる人がいないのは厳しい状態だしなあ」

Aさんが言った。少ない情報で何があったか分かったそうだ。

「でこれがひまわりの写真なんだけど」

なんとか話が切れた。

一時間くらいして帰ろうとした時
「聖蘭ちゃん」

  聖蘭菌と呼ばれていたのもあり、久しぶりに自分の名前を呼ばれて、毛が逆立ちしそうだった

「また来週も来な、みんななんか集まって自由にくっちゃべってるだけだから」

 不思議な事に心がすうーとした。そして翌週も行った。Aさんはカメラを持ってきた。

「聖蘭ちゃんこのカメラもう使わないからあげるよ」スマホも持っていない私にとってとにかく重かった。説明書も読まずいろいろ設定をいじってシャッターを切り続けた。それでたまに美しい写真になるのがおもしろかった。

 遠くから会いに来た元患者さんが来た。すると「今わしがカメラあげたんだがけっこううまくてねぇ」笑いながら自慢している。それからはひたすら写真を撮った。百枚に一枚良い写真があるかどうかぐらいだが良いのがとれるとAさんの家に持っていった。Aさんはそんなに目が良くないのに長いまゆげに触れるくらい近づけて見ている。「おれそんなに説明うまくねーけどいい写真だ」そういってこの前あったひまわりの写真を見せてくれた人を呼んで自慢してた。そして帰る時に握手をした。そして県内最大の写真コンテストに入賞した時も行った。以前あった二人のほかにAさんの妹さんもいた。三人とも入賞した事を喜んでくれた。まるで自分の事のように、お祝いにとうなぎを買ってくれた。「聖蘭ちゃんやったなあ」そういってくれた。自分でもこんな結果になった事におどろいたけど、私が入賞した事を理解してもらい笑ってくれる事がゲームの中以外で知れたことが上回っていた。そうしてまた帰る時に握手をした。毎回握手をして気付いたがAさんは今はもう強い握手が出来なくなっていた。
 
  高校の入学試験に合格した時も行った。しかしそこはいつもの家ではなく病室だ、そうして合格した事を伝えた。「おぉ、やったな」弱々しく言っている。今私がAさんに出来る事は何なのかこの時も思いつく事は出来なかった。この状態を助ける事は出来ないけれど帰る時に今までのお礼を言って帰った。
 二〇二〇年Aさんは亡くなった。入学式の前だったのに、あの時に比べ衝撃が少なかった。悲しくない訳じゃないけどちゃんと頭で理解できた感覚だ。お骨になって帰ってきた時はたくさんの元患者さんが集まった。私がAさん家で知りあった人もたくさんいた。Aさんの妹さんの所に集まってジュースを飲んだ。ふと「そういえば四月から高校に入学するんですよ」と言った。するとみんなが「おお本当か」「どこの高校に行くの?」「うらやましいねぇ」歓迎の声が飛び交った。みんな苦しく生きながらも卑屈にならずにみんな笑ってくれた。自由に思った事を言ってもいいし受けいれてくれる場所があったんんだとまた感じれた事に涙が流れた。こういう人望のある会長のようになりたいと心から思えた。

 こうして今は3年間学校に行っている。中学生も元会長も未だに亡くなった事は百%消化できない。中学生が亡くなって遠回りした事も嫌な記憶のまま、でもそんな中でも助けてくれた事は忘れたくないし、自分で肯定できる。少し楽になったのは時間が流れていった事もあるのだろう。
 話を聞いてくれた事、熱心になれる物と場所を作ってくれた事、偶然かもしれないけれど重なりうまくいった事、いじめられた事が良かったとは思えないけどこの三つの事は本当に良かった。この数日しっかり覚えたい。今はもういないけれど本当にありがとう。